これがリライト最後のオマケ。
アホみたいに長くなりました。読んでくださる方、ホントにすみません。
別の話の小話を書こうかなと思ったのですが、イマイチまとまらなかったので、ここでオマケ祭りは打ち切ります。いつかまた機会がありましたら。
読みにくいのにお付き合いくださった方、ありがとうございました!
アホみたいに長くなりました。読んでくださる方、ホントにすみません。
別の話の小話を書こうかなと思ったのですが、イマイチまとまらなかったので、ここでオマケ祭りは打ち切ります。いつかまた機会がありましたら。
読みにくいのにお付き合いくださった方、ありがとうございました!
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〇月〇日
今日の午前中、僕は他の護衛官から使いを頼まれて、主殿に向かった。
護衛官詰所から主殿までまっすぐ向かう分には、さすがに僕一人でも迷ったりはしない。しかしまだ緊張はする。神官と大神官、守護人に神獣までが住まう主殿は、神ノ宮の中で最も巨大で壮麗、堂々たる威容を誇る建物だ。
一歩中に踏み入るだけで、その輝かしさと厳かな雰囲気に身が竦むような心持ちになる。いつかは僕も、他の人たちのように胸を張って廊下を歩けるようになるのかなあ。
そそくさと用事を済ませ、やれやれと安堵して詰所に戻ろうとした時、角のところで侍女とぶつかった。
「す、すみません」
慌てて謝りながら、尻餅をついている侍女を助け起こす。僕が個人的に知っている侍女といえばミーシアくらいだけど、女性にしては背が高くちょっとふっくらしている彼女とは逆に、その侍女はいかにもほっそりとたおやかな身体つきをしていて、なおさら焦った。
「いいえ、わたくしのほうこそ、たいへん申しわけございません。急いでおりまして、注意が足りませんでした」
思った以上に丁寧な謝罪が返ってきて、こちらのほうがとりのぼせそうだ。立ち上がった侍女は姿勢もよく、お辞儀をする仕草も非常に品があった。ミーシアのように優しく気さくな感じもいいけれど、この人のように物腰柔らかくしとやかな感じもいいなと、うっとりしてしまう。
「あら……」
侍女はそれから、改めて僕を見て──というより、僕の頭からつま先までを目測するように眺めて、少し目を瞠った。
「ひょっとして、新しく護衛官になられたカイルさん、ですか?」
「え、はい」
言い当てられて、ぎょっとする。僕ってそんなに侍女の間で名が知られてるんだろうか。「背が高いばかりでちっとも役に立たない新人」 とか、そういう評判だったらどうしよう。
「まあ、やっぱり。ミーシアやシ……守護さまからお話を伺って、わたくしも一度お会いしてみたいと思っていたんです。申し遅れましたが、わたくし、ミーシアと共に守護人付きの侍女をしております、セラと申します」
げえっ!
僕は内心で悲鳴を上げて飛び上がりそうになった。
セラと名乗った侍女は 「はじめまして」 とおっとり微笑んでいるけど、僕のほうはそれどころじゃない。守護人から聞いたって、どんな話なんだ?! そして守護人の侍女といったら、トウイさんに 「怒らせると狂犬になる怖い人が後ろに二人も付いてる」 と言わしめたアレじゃないか! まさかこの人もロウガさんの妹なんじゃないだろうな?!
「そうだわ、ちょうどよかった」
僕が恐怖のあまり口もきけないでいる間、セラさんはセラさんで頭を回転させていたらしい。口の中で小さく呟いてから、僕の腕にそっと手を添えた。
「カイルさん、実はお願いがあるのですけど」
「は、ははははい、なんでしょう」
「今、王ノ宮からご使者が参られているんです。守護さまにご面会をということなのだけれど、あいにく、守護さまはお外に出ていらして」
「あ、じゃ、じゃあ、僕がお探しして、お呼びしてきましょうか」
「いいえ、いらっしゃるところはわかっているの。ですからカイルさん、申しわけないのだけど、そのご使者を守護さまのところにご案内していただけないかしら」
「え、僕が、ですか」
「きっと、そのほうがいいと思うの。室内でお話ということになったら、付く護衛官は一人のみと制限されてしまうし……あの雰囲気だとご用の向きは決して良い中身ではないようだから、なるべく人の目もある外のほうがいいわ」
小声で確認するように話している内容が、僕にはさっぱり理解できなかった。「あの……」 と当惑する僕の腕を、今度はぐっと掴まれる。
「お願いします。今はほんの少しでも、守護さまの力が削がれるようなことがあってはならないの。ご使者には、わたくしのほうから上手く説明しておきます」
「は……はい、わかりました」
セラさんの迫力に押されるように、僕はそう返事をするしかない。セラさんはほっとしたように目許を和ませると、ではご一緒に、と方向転換して再び歩き出した。
守護人は、庭園内の四阿にいるという。
主殿からは少し距離があるので、せっかく出向いた上に歩かされるとは、と使者が怒りだすのではないかと僕は心配だったが、意外と機嫌が良さそうに、「神ノ宮もなかなかの眺めだ」 と周囲を見回しながら足を動かしていた。セラさんはよほど上手に言いくるめたらしい。
そしてこの使者は存外、お喋り好きな人物でもあった。普通、階級が上の人は護衛官の存在を空気のようにしか思わなかったりするものだけど、どうやら僕がにょっきりとした高身長なのが面白かったようで、何を食べて育つとそうなるんだ、と訊いてきたりする。
「私の生まれ育った街は、ニーヴァのはずれの田舎なのですが、街全体でイルマを育てて売る、ということをしておりまして」
仕方なく、そう説明する。身分の高い人と言葉を交わすのは緊張するかと思ったけど、そうでもなかった。考えてみたら、僕はすでに神獣の守護人と会話をしているんだもんな。
「ああ、イルマか。あれの乳は滋養がつくと聞いたことはあるが、あのイヤな匂いがなんとも。まあ、所詮は庶民の好むものだからな」
はははと使者が笑うのを、あーそーですか、と白けた気分で聞くしかない。そのイルマで稼いだ金を上のほうが吸い取って、あなた方に贅沢をさせているんですけどね。
「なんでも神獣の守護人は、イルマの乳を好んで飲まれると聞いたが」
「えっ、守護さまがですか?」
つい驚いて問い返してしまったが、自分の考えのほうに意識が向いているのか、使者は僕の無礼を咎めることもなく、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべた。
「さても異世界からいらっしゃったというだけあって、ゲテモノをお好みだということだろう。神ノ宮の食事にもイルマの乳を出すよう大神官に掛け合って揉めた、とのことだ。いやはやまったく、なんとも呑気であられることよ」
「守護さまが……」
イルマの乳はクセや匂いがあって、慣れないと確かに飲みにくい。けれど非常に栄養価が高く、疲労回復に大いに役立つということは、街で暮らす一般の民の間では常識だ。
もしかして、守護人はそれを知ってるんだろうか。
「そのような方にいつまでも国の至宝を渡しっぱなしとは、カイラス王もまた呑気であられる。神獣の剣はニーヴァの宝なのだぞ、返却の督促もなさらないとは一体どういうおつもりなのだろうな。王はなぜ守護人に対してああも弱腰なのか、まったく理解に苦しむわ。この際だから、私のほうからピシッと」
気負ったようにぶつぶつと呟く内容を耳にして、僕は目を見開いた。
──じゃあ、この使者は、神獣の剣の返却を守護人に求めに来た、ということか。
守護人の腰に差されていた、銀色に輝く細身の美しい剣。僕の目からは、あの剣は彼女によく馴染んでいるように見えたけどな……
けれど王ノ宮の使者にそんなことを言いだせるはずもなく、戸惑っている間に、僕たちは目的の場所近くまでやって来た。
「ん?」
と、足を止めたのは、そこに辿り着いて守護人を見つけるよりも前に、見知った顔を見つけてしまったからだ。
ハリスさんとメルさんである。何をしてるんだ、二人とも、こんなところで。いや、守護人の近くにこの二人がいるのは別に不思議でもなんでもないが、彼らは妙に隠れるようにして、こそこそと植え込みの後ろで片膝をつき、その向こう側を窺っている。
「あの……」
声をかけようとしたら、ぱっと振り返った二人に、伏せろ、と手で合図をされた。
その厳しい顔つきに、僕も瞬時にして身の裡を緊張させる。さてはすぐそばに刺客や賊がいて、守護人を狙ってでもいるのか。
さっと機敏に反応し、僕も腰を屈めて、自分の身を隠せる場所へと素早く移動した。使者の身体も引きずるようにして木の陰へと押し込む。「な……」 と目を丸くして抗議の声を上げかけた使者に、静かに、と身振りで示した。
「──どうしたんです」
ハリスさんとメルさんの許へとこっそり近づき、音量を極限まで下げて訊ねる。ハリスさんとメルさんは、二人揃ってこちらに鋭い視線を向けた。
「今、大変な状況なんだよ」
「いいですか、絶対にこちらの気配を、あちらに悟らせちゃいけませんよ」
二人はほとんど唇を動かさず、声にならない声を出して僕に警告した。この緊迫した空気、ただごとではない。僕は固い表情で頷いた。一体何が起こっているのだろう。
「……で、あれは誰だ」
ハリスさんが目線を向けたのは、何がなんだかわからず青い顔をしている王ノ宮の使者だ。僕は手短にこれまでのことを説明した。
「へえ……神獣の剣を」
呟いて、ちらっとメルさんと目を見交わす。そこにどんな意志の疎通があるのか、当然ながら僕にはさっぱり判らない。
「こ、これは、一体、どういう」
その使者が、四つん這いになりながら、ぎこちなくこちらへと近づいてきた。怒っているのか怖がっているのか本人にもわからない、という混乱した様子が見て取れる。
「まあ、とにかく使者どの、黙って成り行きをご覧あれ」
メルさんがにやりと笑ってそう言った。
「……だから、誤解ですって」
ん? と僕は首を捻った。
植え込みから聞こえてくるのは、僕のよく知る声──トウイさんの声だったのである。
刺客や賊に襲われているにしては、その声に迫力などというものは微塵もなく、ただひたすら困り果てている、という感じのものだった。
「……?」
とにかく、今すぐに守護人の命の危機、というわけでもないらしい。植え込みからほんの少しだけ目を覗かせてみると、その向こうにある四阿の中に、守護人とトウイさんの姿が見えた。最近の僕って、こういうのばかりだな。
守護人は四阿内の長椅子に座って、こちらに背中を向けている。だから顔は見えない。その傍らに立つトウイさんは、声と同様に顔も困り果てているようだった。
「俺がそんなところに行くわけないでしょう」
「でも、行ったんでしょう?」
「だからそれはメルに騙されて……ねえ、このくだり、さっきから何度も繰り返してますよね?」
弱りきっているトウイさんとは逆に、守護人の声はまったく感情がなくて平坦だった。いや、僕に対してだってそういう喋り方をする方ではあったけど、あの時は淡々としているなりに、もう少し柔らかさがあった気がする。なのに今は、石のように硬い。
一言で言うと、怖い。
「……そんなところって、どんなところなんですか、メルさん」
僕が口許に手を当てひそひそと訊ねてみると、メルさんはふふふとやけに女性っぽい、そのくせ胡散臭い笑みを浮かべた。
「まあ要するに、『そういう店』 ですよ」
「そういう……」
「女の子が、ほら、いろいろと楽しい思いをさせてくれる」
「…………」
ああ、「そういう店」 ですか……
そんなところがどんなところかは理解できたが、ちっとも理解できない。それでどうしてトウイさんはこんなにも一生懸命、それに対する弁明を守護人にしているんだ。神ノ宮の規則にそのテの場所に行くことを禁じる項目はなかったはずなんだけど。
……そして僕はどうして、こんな恰好でこんな話を聞いているんだ。
「あの街のことは俺だってよく知らないから、普通の飲み屋だって言われてついて行ったんですよ。入ってみて、違うことに気がついて」
「やっぱり入ったのは入ったんじゃないですか」
「いや、だからすぐに出ましたって」
「普通、入る前に気がつきませんか、そういうのは」
「それまでにちょっと飲まされてたし……それにその店、外見は飲み屋っぽかったんで」
「へえー」
守護人の声は、背中が寒くなるくらい冷たかった。
「どの店のことだよ。マオールじゃねえんだろ?」
「ほら、王の宮の近くの。あの中にある店でねえ、なかなか美人が揃っているって評判のところがね」
「ほう、なんという名前の店かな」
確認するハリスさんに、メルさんが地面に指で地図を描いている。そしていつの間にか使者までが、興味津々で身を乗り出してそれを聞いている。
あの、「大変な状況」 というのは、もしかしてこれのことですか。
トウイさんは何度も、違う、誤解だ、と言い張っている。
「本当ですってば」
「メルさんに騙されて入ったけど、すぐに出たと」
「そうです」
「じゃあなんで、服に口紅がついてたんですか」
わあ! トウイさん、それはマズイです!
「……実際のところ、どうなんです?」
「あの男に、そんな度胸と器用さがあると思いますか。店に入ってすぐ女の子たちに囲ませてやったのに、一瞬の隙をついて逃げられてしまいましたよ。まったく、すばしっこいんだから」
メルさんが、不覚、というような顔をしている。僕は首を傾げた。
「あのー、なんでそんなことするんですか。僕とマオールに行った時だって、トウイさん、そういう店にはちっとも興味がなさそうでしたよ」
「そりゃ、面白……いえ、何事も経験を積むことが必要だと思って。ねえ、使者どのもそう思いません?」
「まあ、そうだな。特に女関係というものは経験してみないと、いろいろ判らないことがな」
なんだか変なことを考えているらしく、使者がぐふふと下品な笑い方をした。
「確かになあ。トウイももっと経験を積んどきゃ、こういう時はひたすら機嫌とって甘い言葉を繰り返せばいい、ってことがわかるはずなんだがな。あっちだって別に本気で疑ってるわけじゃなくて、ただ拗ねてるだけなのに、それにも気づかないとは……まったく今まで俺から何を学んできたんだ」
ハリスさんは四阿のほうに目をやりながら、呆れるようにぶつぶつと言った。
「そろそろ機嫌を直してくれません?」
「別に怒ってませんけど」
「怒ってるじゃないですか。その顔といい、口調といい」
「わたしはいつもこんな感じです、トウイ 『さん』」
「もう……」
ぷいっと顔を背ける守護人に、トウイさんは、手がつけられない、というように深いため息をついた。
そして、ぼそりと言った。
「……もっと素直に妬けばいいのに」
「あ」
ハリスさんと、メルさんと、使者と、僕の声が同時に重なった。
「あのバカ……」
「ほんっとにアホですね彼は」
「ここであれはいかんだろう」
他の三人がそれぞれ頭を抱えたが、僕もまったく同意見だ。いやそれはダメですよ、トウイさん。それは今この場この状況で、いちばん出したらいけない言葉ですよ。あの人、本当にこういうのがヘタクソなんだなあ。
「…………」
守護人が無言でゆらりと立ち上がった。こちらからはその後ろ姿しか見えないのに、彼女が全身に氷のような冷気をまとっているのは伝わってきた。
「……怒ってません」
「だって──」
守護人は、トウイさんの言葉を待つことはしなかった。すらりと滑らかな動きで持ち上げた右手──には、いつの間にか腰に帯びていたはずの細身の剣が握られていて、彼女はそれを一瞬の躊躇もなく振り下ろした。
僕から見えたのは、白く輝く軌跡だけだった。
「──怒ってない、と、言ってるんです」
妖獣さえも凍りついてしまいそうな低い声音で一本調子にそう言うと、守護人は神獣の剣を腰の鞘に収め、すたすたと歩き出した。
「ちょ、ちょっと待って!」
慌てて、トウイさんがそれを追う。
……その途端、ぱかっと二つに分断された長椅子が、大きな重い音を立て左右に分かれて倒れた。
「な……な、な、な」
使者は腰を抜かして、ぱくぱくと開閉する口から泡を吹きそうになっている。
僕も似たようなものだ。腰こそ抜かさなかったけど、自分で見たものが信じられない。え、今、何があった? あの長椅子は太い材木を一本そのまま削って磨いて仕上げたもので、剣で断ち切るなんてこと、可能であるはずが……
「あっ、向こうに行きますよ」
「よし、追うぞ」
メルさんとハリスさんは別段驚いた様子もなく腰を上げた。足を踏み出しかけて、思い出したようにくるりと振り返る。
「……というわけで、ご覧になりましたでしょう、使者どの」
「神獣の剣がただの飾りではないことを、ご確認していただけましたか」
「あそこまであの剣を見事に使いこなせるのは、やっぱり神獣の守護人しかおりません」
「そう、なにしろ剣自身が、守護人をあるじと仰いでいる。そうでなければあそこまでの切れ味はとても。それを引き離すと今度はどんな災いが降りかかるか判りませんよ? なにしろあれはニーヴァ国の至宝、まぎれもなく神剣ですし」
「カイラス王にこの一件をご報告してごらんなさい。あのヘタレ……いやお優しい王も、返却は望まない、剣は守護人の許にあるべきだと仰ると思いますね」
代わる代わるかけられる言葉に、蒼白になった使者は、首振り人形のように何度も頷くだけだった。
結局、ハリスさんとメルさんは、守護人とトウイさんの追跡をすることは出来なかった。
その前にロウガさんに見つかって、詰所に連れ戻されたからだ。ついでに僕も一緒になって並ばされ、一限ほどがみがみと説教された。解放された時には、耳がじんじんと痺れていた。
でも、あれから二人はどうなったんだろう、と気になってしょうがない。広大な神ノ宮の敷地の中、そう簡単に見つかるとは思えなかったけど、僕はうろうろと探してみた。
──彼らの姿を見かけたのは、それからさらに一限ほど後のことだ。
守護人とトウイさんは、敷地のかなり端のほうにいた。さっきの四阿のように景色が綺麗なところでもなければ、美しく整えられているところでもない。植え込みもなければ花もない、殺風景なその場所で、二人は並んで座っていた。
トウイさんは、僕に気づいて、人差し指を口に当てた。
僕は急いでこくこくと頷き、すぐに身を翻した。
まったく余計なお世話だった。お節介なことを考えるもんじゃない。
詰所に向かって走りながら、このことはハリスさんにもメルさんにも黙っていよう、と決意した。
隣り合う肩に、小さな頭が乗せられていたことも。すやすやと眠る守護人が、童女のように穏やかな顔をしていたことも。それを見る、トウイさんの優しそうな眼差しも。
……二人の手が、しっかりと繋がれていたことも。
ぜんぶ、自分だけの秘密にしておこう。
僕はなんだかものすごく照れてしまって、火照った顔から噴き出る汗を拭った。
──その後、カイラス王より正式に、「神獣の剣は、神獣の守護人が自ら返却の意志を示すまで貸与する」 との申し出があったらしい。
王は二日ほど気分がすぐれず政務を休んで寝込んだ、という噂だ。
〇月〇日
ニーヴァでは……というか、大部分の国はそうなのだが、一国はいくつかの都市が集まって形成されている。
ひとつの都市の中には、多数の街と、そこには入らない個人の家があり、それらから納められる税金その他が、都市にある役所に行き、そこからまた王ノ宮に行くという──かなり単純に言うと、そんな構造になっている。
ひとつの都市に、役所はひとつ。役所に入るのは階級の高い政官と決まっている。王ノ宮に属するとはいえ、基本、役所の管理や権限全般はその政官たちに委ねられる。王ノ宮の目もいちいちそんなところまでは届かないし、まあ、やりたい放題というやつだ。
であるから、役所の長たる人間がまだしも節度のある人間であれば大幸運、でも世の常として強欲な人間が上に行く場合がほとんどなので、住人たちは役所のご機嫌を窺いながらあれこれと駆け引きをしなければならないのが普通だ。
ひどいところになると、街ごとによって取られる税の金額に大きな差がついたり、小さな街では閉鎖に追い込まれてしまうこともある。役所は人々から出来るだけ金を吸い上げ、なるべく多くの上前をはねて、涼しい顔をして王ノ宮に残りを差し出すのである。
みんな、理不尽なとは思いながらも、我慢するしかない。ずっとそうしてやって来たのだし、我慢するより他にしょうがない、とも思っていたからだ。
それが、ここにきて。
これから徐々に都市に置く役所の数を増やしていく、と王ノ宮が新方針を決定した。
現在ある役所を中央として、他に小規模な役所を複数つくる、というのである。役所の数が増えれば、管轄する街や家の数が減る。今まで放置されていた事案なども手が廻るようになる、というわけだ。
しかもおまけに、新たに設置される役所では、住人たちからの苦情、要望なども受け付ける、という。今まで治安警察だって、階級の高い人間の訴えしか耳を貸さなかったというのに。
税金なども、それらの役所を通して中央の役所に送られる。手順がひとつ増えるわけだが、それで中央の専横を食い止めることは出来る。しかもそういう役所は複数あるのだから、互いに目を光らせることで職権の乱用も防げる。
その上、新しい役人は、階級によらず試験で決められる──なんて。
それを聞いた時、人々は驚愕した。僕も耳を疑った。王ノ宮が、そんな 「民のための政治」 を考えるとは。
カイラス王は気弱な性格だと聞いていたが、まったく噂はあてにならないなと、しみじみ思った。
護衛官詰所の食堂でも、その話題でもちきりだった。
「すごいことですよね」
僕もいささか興奮して声を弾ませる。歴史上、稀に見る画期的な出来事だ、無理もない。
しかし、ロウガさん、ハリスさん、メルさんの三人はいつもと変わらず落ち着いていた。
「……ま、問題は今後も山積み、ってのは変わりないんだけどな。役所に気軽に訴えられるようになるとはいっても、それが実際に聞き届けられるかはかなり怪しい。自分たちに都合が悪いことなら握りつぶすのも簡単だし」
ハリスさんは醒めたことを言って肩を竦めている。
「反対意見も多かったのに、それを押さえ込んでのことだったんですってね」
「こういう仕組みにすることによって、王ノ宮にも利がないわけじゃありませんからね。それがなきゃあ、いくらなんでも通りませんでしたよ。まったく、苦労しました」
メルさんは、まるで自分の手柄のようにそう言った。
「でも、そういう場所が出来る、ってことが大きいですよ。今までは、困ったことがあっても、自分たちでなんとかするしかなかったんですから。救済の手が差し伸べられるかも、と思うだけで、それは希望になります」
「そうだな」
ロウガさんがひとつ息をついて、表情を引き締める。
「シ……カイラス王はきっと、この国をもう少しだけ風通しよくしたい、と思われているんだろう。だから俺たちも、自分に出来るだけのことをしよう、と考えている」
「はい!」
僕も元気よく返事をした。
そりゃ、神ノ宮の護衛官である僕に、出来ることなんてたかが知れているけど。
この国の進む先には光が見える──と、嬉しく思えてならなかった。
〇月〇日
今日、トウイさんと、「夢」 についての話をした。
僕の夢は、早く一人前の護衛官になって、故郷の両親を安心させることだ。イルマを育てるのは手もかかる上に体力も使う。朝は早いし夜は遅い。いつかお金を貯めて、ゆっくりと毎日を過ごせるような生活をさせてやりたい、と僕は少し照れながら打ち明けた。
「立派な夢じゃないか」
「トウイさんは?」
へへへと頭を掻きながら訊いてみる。トウイさんの夢って、やっぱり神ノ宮一の護衛官になりたい、とかそういうことかな。両親はもう亡くなったと聞いているけど、故郷はあるのだろうし、いつかはそこに帰りたい、ということかもしれない。
「俺か……そうだな」
トウイさんは呟いて、どこか遠くを見るような目をした。
「……ずーっと、さ」
「はい?」
「ずっとずっと長生きして、髪も真っ白になって、皺だらけになって、寿命が完全に尽きるまで、生きて、生きて、生き抜いてさ」
「……はい?」
「ああ楽しい人生だった、満足だ、ここまで生きてこられてよかったな、って」
「……それだけ?」
ちょっぴりガッカリして、僕は言った。だってそんなの──まるで年寄りの言い草だ。
「──って、そう思う人の最期を看取りたい」
「は?」
ちんぷんかんぷんな顔をしている僕を見て、トウイさんはくすりと笑った。
「その人がさ、そう思いながら目を閉じる最後の瞬間、そばにいる俺の顔を見て、幸せそうに笑うところを見たい」
僕は首を捻った。
「それが、夢ですか?」
「うん」
夢だよ、と言って、また笑う。
「その夢を叶えるために、頑張ろうって思えるんだ」
たまたまその後で、僕はまたしても守護人に捕まってしまった。今度は、外を歩いている時に、後ろから声をかけられたのである。不可抗力だ。一瞬逃げたくなったが我慢した。
護衛をしているのはハリスさんではなく、ロウガさんだった。僕が悪いわけではないと思うのに、なぜだかじろりと睨まれた。
「カイルさん、何か変わったことはありませんか」
「はい、ございません」
「護衛官の先輩とか」
はいはい、最初からそれが聞きたいんですよね。
しかしもういい加減、トウイさんの話はネタ切れだ。そうそう人の長所ばかり並べられるものじゃない。かといって短所を口にしようものなら、非常に怖い目に遭いそうな気がする、なんとなく。
「えーと、そういえば、今日」
苦し紛れに、今日の夢についての話をした。勝手に言ってもいいのかな、とは思ったけど、あれくらいささやかな内容なら、別に構わないだろう。
守護人は、僕の話を黙って聞いていた。話し終わってからも、しばらく口をきかなかった。もしかして、怒らせたかな、とひやりとする。護衛官としての覇気に欠ける、とかいってトウイさんが叱責でも喰らったらどうしよう。
「……トウイ、さんが、そう言いましたか?」
ようやく、小さな声でそう言った。
「は、はい」
ドキドキしている僕に、そう、と静かに頷く。
「──じゃあ、そうなります。きっとね」
それはまるで、予言のように。
あるいは、祈りのように。
……または、はるか先への約束のように。
守護人はそう言って、ふわりと微笑んだ。
とても、幸せそうに。
(おわり)
リライトのオマケ小話その2、「椎名編」。
もしくは、「神ノ宮という身分差の激しい特殊な閉鎖的空間に入った護衛官が味わう苦悩や辛酸、などとはまったく無関係なところでわりと理不尽な試練を受け続ける新人の話」。
長いです。
もしくは、「神ノ宮という身分差の激しい特殊な閉鎖的空間に入った護衛官が味わう苦悩や辛酸、などとはまったく無関係なところでわりと理不尽な試練を受け続ける新人の話」。
長いです。
***
〇月〇日
今日、一人の侍女に出会った。
訓練を終えて詰所に戻ろうとしていた時に、入口の前で声をかけられたのだ。僕を呼びとめた彼女は、何かを言いかけて、あら、というように目をぱちぱちと瞬いた。
「もしかして、新しく入った護衛官というのは、あなた?」
「あ、はい」
一応そう返事をしてから、僕は迷った。まだ神ノ宮に入って日の浅い僕は、神官たちに仕える侍女たちとはほとんど話をしたこともないので、どういう態度で接すればいいのか、今ひとつよく判らない。
神ノ宮内において、護衛官は侍女よりも格が上だ、というのは聞いたことがあるけど。だからといって、神官のようにふんぞり返って命令すればいい、というものでもないだろう。ていうか、僕にそんなこと、そもそも出来るわけないし。
「どうかしら。神ノ宮での生活は、もう慣れた?」
僕が戸惑っていても、彼女のほうは気にした様子もなくにこにこと朗らかに笑っている。それを見て、僕もちょっとほっとした。要するに、普通に会話をすればいい、ということだよな。
彼女の笑顔は、相対する人間の警戒心や緊張感を、一瞬にして溶かしてしまうような力があった。
「そうですね、最初のうちは疲れましたけど。親切な先輩もいますし、徐々に身体や気持ちのほうも慣れていっている感じです」
「それはよかったわ。侍女でも、新しく入ったばかりの人は、やっぱり大変そうだもの。護衛官や警護は、それ以上に毎日の厳しい訓練で、へとへとになってしまうことも多いらしくて」
「あ、それはあります。特にあの、ロウガさんって護衛官がいるんですけど、この人がもう、ものすごく厳しくて、その上怖くって……指導の仕方もそうですけど、顔も」
「ふふふ。そうよね」
こっそりと声を潜めて愚痴めいたことを言ってしまった僕に、侍女は可笑しくてたまらないというように、コロコロ笑った。素直で可愛い笑い方をする人だなあ、と僕はつい見惚れてしまう。年上かな? でもそんなに差はないと思うんだけど。
「あ、あの、僕、カイルっていいます」
僕が若干乗り出し気味に名乗ると、彼女は愛らしい仕草で、口に手を当てた。
「あら、そうね。私ったら名前も言わずに、ごめんなさい。ミーシアよ」
「ミーシアさん?」
「さん、は要らないわ」
「え……じゃ、じゃあ、ミーシア?」
「はい」
にっこりと微笑む彼女に、僕はデレッとやにさがった。
僕はこの背の高さが理由で、大抵の女の子から敬遠されてしまう。僕のほうだって、向かい合った時にあまりに身長差のある相手だと、キスするのも難しいなとはじめから諦めることのほうが多い。
でもその点、このミーシアさん、じゃなかった、ミーシアはいいじゃないか。なにしろ彼女も、女性にしてはかなり高めだ。僕と並んでもあんまり違和感がない。女性は小柄なほうがいい、と思う男は多いから、ミーシアだってきっと、自分の身長のことで何度も悲しい思いをしてきたに違いない。
頬が健康的に色づいているのも、笑うと目尻が下がるのも、全体的にふっくらとしているのも、母性的な雰囲気を持っているのも、彼女は何もかも僕の好みに合致していた。確か、護衛官と侍女が恋愛関係になってはいけない、という規則はなかったはずだよな?
「あの、ミーシア、よかったら」
「あら、兄さん」
ぐぐっと身を寄せ、これからもぜひ仲良くしてもらいたい、と口にしようとした時、ミーシアが僕の背後に目をやって声を上げた。
「え、にい……」
と振り返った僕は、そこに、世にも恐ろしいものを見た。
ひっ、という悲鳴が喉から飛び出しかける。
「どうした、ミーシア」
心臓まで凍ってしまいそうなひんやりとした空気を全身に張り巡らせ、爛々と光る猛獣のような鬼気迫る目で僕を睨みながら、ロウガさんは平坦な口調で問いかけた。
威圧感だけで人が殺せたら、たぶん僕はこの時、一瞬で死んでいる。
「あのね、王ノ宮からシイナさまあてに、贈り物としてたくさんの果物が届いたの。護衛官と警護と侍女で分けて、ってシイナさまが」
ミーシアのニコニコ顔に変化はない。目の前にいる人から発散されている暗黒的な何かに、彼女はまったく気づいていないらしかった。
「贈り物? 王ノ宮から?」
「先日のお礼、ということで」
「ああ……あの方も、律儀だな」
「これからの交渉が上手くいけば、ニーヴァにとってどれほど益になるかわからないんですもの。問題解決に一役買ったシイナさまに、ご褒美としてなんでも好きなものを、と仰られたそうよ。そうしたらシイナさまは、『じゃあ、神ノ宮で働くみんなにビタミンの補給を』 って返されたんですって」
「ビタミン、とはなんだろう」
「さあ……? でも、神官様たちのお食事と比べると、私たちのここでの食事は単調すぎて、果物や野菜が足りない、ということらしいの。『ビタミン』 が不足すると、病気にかかることもあるのだそうよ」
「なるほど、興味深い……。その話は、また改めてシイナさまから伺おう。お心遣いありがたく、とお前から伝えてもらえるか」
「ええ。それでね、その荷があまりにも大きくて、とても侍女だけではここに運べないの。力持ちの護衛官を何人か、あちらに寄越してもらえるかしら」
「もちろんだ。あとで行かせるから」
「お願いね。じゃあ、兄さん、カイル、また」
ミーシアは笑いながら手を振って、主殿のほうに軽やかに駆けていった。
その後ろ姿を、ロウガさんは不気味な沈黙とともに見送っている。僕はすぐさまここから逃げたかったが、そうもいかないのでひたすら彫像のように固まっているしかない。
「──カイル」
ロウガさんの声は、地の底から湧き出るがごとく、低かった。
「はははははい」
「まだ紹介したことはなかったが、ミーシアは俺の妹で、神獣の守護人に仕える侍女だ」
それを早く言ってください、と僕は内心で叫ぶように思った。
ぽん、と僕の震える肩に大きな手が置かれる。
「お前だって一日も早く、一人前の護衛官になりたいんだろう? そのためにも今は、若い娘に気を取られている場合ではないんじゃないか?」
「ごごごごもっともです」
「今日はゆっくり休めよ。明日から、さらに訓練がキツくなるからな」
ロウガさんの恫喝、ではなく励ましに、僕はうな垂れて、はい、と返事をした。
ちなみに、
「そういえばさ、守護人の侍女の二人には、間違ってもちょっかいをかけたりするなよ? 敵に回すとおっかない人が、二人もいるからな? あの人たちが静かに怒って、狂犬みたいに暴れ出すと、誰も手に負えなくなるんだ」
と、トウイさんに真面目な顔で忠告されたのは、ついさっきのことだ。
それを早く言ってください!
〇月〇日
結局、僕は未だ、神獣の守護人を拝見したことがない。
一体、どういう方なんだろうなあ──と、どうしても思ってしまう。
どうやら、神官たちからは煙たがられているらしい、ということは判った。大神官に至っては、はっきりと守護人のことを避けている、とも聞いた。やっぱり、神ノ宮と神獣を放置して王ノ宮におもねっていた件が、今もまだ尾を引いているんだろうか。
しかしその一方で、護衛官、警護、侍女たちからは、絶大な信頼を置かれているようなのが腑に落ちない。
普段、裏では神官のことをボロクソにけなしてこき下ろすことに躊躇のない護衛官たちなのに、こと話題が守護人のことになると、途端にそれが、苦笑いの混じった柔らかい語調に変わるのだ。
「しょうがねえなあ守護さまは」 と口では言いながら顔はヘラヘラしてる、っていうか。やんちゃ坊主に手こずりながらも甘やかしてるような感じ、っていうか。いや、相手は神獣の守護人なんだし、そんなことはあるはずないに決まってるんだけど。
あの後、またミーシアと顔を合わせた時にそれとなく探りを入れてみたのだが (もちろん、近くにロウガさんの姿がないか、注意深く確認した)、彼女はまるでノロケのように延々と、守護人の美点ばかりを嬉しそうに語った。優しい、とか、可愛いらしい、とか、とても強い、とか。それはそれで僕の抱いていた守護人のイメージからはあまりにも遠すぎて、ピンとこない。
ロウガさんには怖くて聞けないし、ハリスさんはなんとなく近寄りがたいし、メルさんの言葉は回りくどすぎてよく判らないし。
結果的に、僕が頼れるのは、やっぱりトウイさんしかいない、ということになる。
……でも。
「あの、神獣の守護人っていうのは、どういう方なんですか」
と訊ねた僕に、トウイさんが返した答えは、あまりにも当たり前のものだった。
「世界に一人しかいない、特別な人だよ」
そりゃあ、神獣の守護人なんだから、世界に一人しかいないし、特別に決まってるでしょう、と僕が不満げに眉を寄せると、トウイさんはそれ以上何も言わずに、笑った。
〇月〇日
訓練の合間の空いた時間、神ノ宮内の地理や構造を少しでも頭に入れておこうと、僕は探索に出ることにした。
今までずっと詰所の近くにいることばかりで、主殿でさえ数えるほどしか足を踏み入れたことがない。そういう時も必ずそばに先輩護衛官の誰かがいたから、一人っきりでウロウロするのはこれがはじめてだ。
なにしろ神ノ宮の敷地は広大なので、ぼーっと歩いているとすぐに自分のいる位置が判らなくなってしまう。護衛官も立ち入りを許されない場所、などもあるらしいので、気をつけないと。
──と、思っていたのに。
迷った。
美しい庭園の中にぽつんと佇んで、僕は途方に暮れた。
恥をしのんで誰かに聞こうにも、この一隅に人の姿は見えない。よく手入れをされた植え込みや、綺麗な彩りの花々が整然と配置されているばかりだ。
「……でしょう?」
その時、どこかから声が聞こえて、僕はほっとした。
どうやら声の主は、蔓状の植物で造られた高い柵の向こうにいるらしい。その柵は、茂った葉っぱと花で覆われて、先の視界を遮っている。
もしも迂闊に声をかけて、そこにいるのが神官であったら、咎められるのは僕のほうだ。万が一そこで人に聞かれたくない密談でもしていた場合、あっという間に解雇され、神ノ宮から放り出されてしまう可能性もある。
それでも僕がそちらに近づいていったのは、聞こえてきた声が、明らかに女性のものだったからだ。
神官になれるのは男のみ。だとしたらそこにいるのは神官ではない。しかし、身分の高い客人が神ノ宮を訪れることもあるので、念のため身を伏せて、僕はそろそろと足を進ませた。そこにいるのが豪華に着飾ったどこぞの貴婦人であったら、さっさとここから離れよう。
足を折って屈み込み、柵の端からそっと目だけを覗かせる。
そして、ひどく当惑した。
──そこにいたのは、貴婦人などではなく、十代の女の子だったのだ。
彼女は男の子のような服装をして、無造作に長椅子に腰かけていた。椅子の上に折り曲げて載せた片足の膝で頬杖をつき、下ろした片足はぶらぶらと揺らすという行儀の悪さで、何か考えごとをするかのように引き結んだ唇を曲げている。
最初、どこかの街から子供が紛れ込んだのかと思った。それくらいの違和感だった。美しく見せるためにすべてが計算され尽くしたこの場所で、何かの間違いで迷い込んできた異物のように、自分を飾ろうともしない彼女の存在は浮いていた。
でも、すぐに気づいた。
少女の黒い髪、黒い瞳。
この神ノ宮で、それを持つ存在は一人しかいない。
そして、彼女の傍らに立っているのはハリスさん。
ということは、導き出される答えはひとつ。
あれが、神獣の守護人だ。
……え、あれが?
正直、そう思ってしまったのは否めない。だって、僕が今まで頭に思い描いていた姿とは、だいぶ違う。というか、重なる部分がカケラもない。王太子を誑かして云々、という話から、勝手に豊満で悪女的な外見を想像していたのだが。
あんなに小さくて、あんなに幼さの残る少女だったのか。
いや、待てよ。
ぽうっと守護人を見つめてから、はたと我に返る。我に返ると同時に、さーっと血の気が引いた。
いやまずいだろ、これ。よりにもよって神獣の守護人に、ばったり出喰わしてしまうなんて。神官であった場合よりも、なお悪い。なにしろ相手はこの神ノ宮で、神獣に次いで重きを置かれる方なのだ。こんな風にこそこそと近づいていったことが知られたら、良くて不敬罪、悪くて一族郎党ともに死罪になりかねない。
屈んだままの姿勢で、僕は焦ってキョロキョロ周囲を見回した。まだこちらに気づかれていない今のうちに、逃げないと。もしも見つかったら大変なことになる。
周りを気にしながら、足をじりっと後ろに動かす。再び、そうっと柵の内側に視線を戻すと──
すぐ目の前に、守護人が膝を折ってちょこんと座っていた。
ロウガさんの時は心臓が凍るような思いをしたが、今度は全身の血液がすべて凍りつくように気分を味わった。
魂の抜けた状態で、僕はまじまじとこちらを見ている守護人と向き合った。一拍の間を置いて、すぐに抜けかけた魂を引き戻し、慌てて後ろに跳び退って平伏する。
「……カイル、お前、自分が何をしてるのか、わかってんのか?」
ハリスさんの冷たい声に、僕は身を縮めて、ぶるぶると震えることしか出来なかった。
「もももっ、申しわけ、ございません……!」
「俺たちは、守護人に許可なく近づいた者がある時には、問答無用で抜剣が許されている。新米とはいえ、そんなことも知らないわけじゃあるまい?」
「はっ、はい、もちろん!」
「だとしたら、覚悟はできてるんだろうな。この神ノ宮で、規律に外れた人間がどういう末路を辿るのか、身をもって知るがいい。──護衛官同士の誼だ、せめてあまり苦しまないように死なせてやる」
一切の感情を抜き去って冷淡に紡がれるハリスさんの言葉に、顔からどっと噴き出した汗がぼとぼと地面に落ちて染みを作った。下を向いたまま、ギュッと強く目を瞑る。
せめて故郷の親にまで、累が及びませんように……!
「脅しつけるのはそこまでにしましょうよ」
その時、軽い声が頭の上に降ってきた。
「この人、すっかり本気にしちゃってますよ。あのー、顔を上げてください」
間延びした声に、おそるおそる顔を上げる。
守護人はさっきと同じく膝を折った恰好のまま、両手に顎を乗せてこちらを覗き込んでいた。ハリスさんは剣の柄に手をかけることもなく、少し憮然とした表情で腕を組んでいる。
「ハリスさんが言ってるのは冗談なので、気にしないでください」
「あのねシイナさま、俺だってあんまりロウガさんみたいなことを言いたくはないんですがね、規律や規則ってのは破るためじゃなく、守るためにあるんです。何もかも、なあなあで済ませりゃいいってもんじゃない」
「神ノ宮におけるわたしに関する規律や規則っていうのは、わたしのいないところで、わたしの意向をまったく無視して、勝手に大神官と神官が決めたものですよね? だとしたら、それに従わなきゃいけない義務がわたしにありますか?」
「……まったく屁理屈をこねる時だけべらべらと口が廻るんだから」
「ハリスさんに似たのかも」
「…………」
苦々しい顔つきをしていたハリスさんは、守護人に平然と返されて、我慢ならなくなったように、ぶっと噴き出した。
「えーと、カイルさん、ですか? 新しく護衛官になった人ですね? 話は聞いてます」
こちらを向いた守護人にそう言われ、身を固くした僕は、もう一度地面にくっつけるようにして頭を下げる。守護人に名を呼ばれ、しかもそれが 「さん」 付けであることに大いに動揺した。話を聞くって、誰から?!
「はっ、はい! ま、まことに、ご無礼、申しわけあり」
「そんなことはいいので、わたしに話を聞かせてもらえますか? 最近の外の様子を知りたいんです。まずは立ってください」
えええ、と僕はうろたえたが、ハリスさんを見ると 「いいから立て」 というように指を動かしているし、これが守護人からの命令であるなら従うしかない。僕がおずおずと腰を上げると、守護人も一緒に立ち上がった。
互いに立って向かい合ってみると、やっぱり守護人は小柄だった。あちらはあちらで、感嘆したように僕の頭から足元まで視線を動かしている。
「背が高いですね」
「は、はい」
「少しトウイに分けてあげれば喜ぶのに……」
「シイナさま、それ本人の前で言っちゃダメですよ。落ち込んで鬱陶しいから」
僕はひたすら困惑するばかりだった。
なんなんだろう。守護人という人の不可思議さもそうだが、ハリスさんとのやり取りも、僕の想像の埒外だ。身分の高い人たちというのは、低い人間をそこらの動物や物くらいにしか認識しないことが多いのに、これじゃまるで……
仲間同士、のような。
守護人は、固辞する僕をほとんど無理やり長椅子に座らせて、いろんな質問をしてきた。
街の様子、ニーヴァの空気、人々の関心、経済状態など。
「神獣の守護人については、どう言われていますか?」
と訊ねられた時には、一瞬心臓が止まった。
「それについては、いろいろと言いたいことがあるんだよな、カイル?」
ハリスさんにニヤニヤされた時には、本気で死を覚悟した。
「い、いえ、それはもちろん、清らかで美しく心根のすぐれたお方であられると……」
ガタガタ歯の根を鳴らしながら答えた僕の返事を、守護人は 「そんな建前はともかく」 とすっぱり切り捨てた。
「本当のところはどうですか」
「カイル、守護さまのお訊ねだ。誠心誠意、自分の心に誓って、一切の嘘偽りなく真実のみを述べな」
「…………」
守護人とハリスさんの二人がかりで詰め寄られては、僕にもう逃げ場はない。真っ青になりながら、メルさんに話したのと同じ内容を口にすると、守護人は、ふーん、と顔をしかめた。
「……その程度ですか。王ノ宮もヌルいですね。どうせ悪役に仕立て上げるんだったら、もっと徹底的にやればよかったのに」
「シイナさま、それトウイの前では言っちゃダメですよ。怒りだして面倒くさいから」
「でも、カイラス王はまだ王ノ宮に味方が少ないし、同情だろうとなんだろうと、せめて国民の好感度は得ておかないと」
「だからって、やりすぎてもよくないんです、こういうのは。民の悪意をシイナさまに集中させすぎると、今度はシイナさまの身が危なくなる。そんなことは俺たちが許しませんからね」
「じゃあバランスよく配分する先を考えて……」
守護人はそこで僕の存在を思い出したらしい。くるりとまたこちらを向いた。
「それはそれとして、カイルさん、神ノ宮はどうですか。不便なことや困ったことはありませんか。神官たちに苛められたりは?」
「ご、ございません」
あったとしても、守護人に言えるわけがない。
「そうですか。じゃあ、何かあったら……」
そこでおそらく、話は終わるところだったのだろう。しかしハリスさんが楽しそうに言葉を添えたために、舵は思わぬ方向へと急転回した。
「シイナさま、このカイルはね、トウイにえらく懐いてるんですよ。トウイも珍しく年下の後輩が出来て嬉しいのか、こいつを可愛がっていてね」
「──へえ」
その瞬間、守護人の目がキラリと輝いた。
「……で、カイルさんの目から見て、トウイさんはどういう先輩ですか」
突然守護人に、真っ向からそんな問いを投げつけられ、僕はまた戸惑った。
「え……あ、あの、どういうって」
「忌憚なく、ありのままを教えてください」
守護人は非常に真面目な表情をしている。なんだか、伝わってくる迫力と本気度が、さっきまでの比ではない。なんなんだ、この熱の入れようは。
そこで僕ははっと閃いた。
もしかして、守護人はトウイさんを、護衛官の任から降ろそうとしているのではないか? それで、何か問題点やアラ探しをしようとしているのかも。ここで僕が下手なことを言ったら、トウイさんは難癖をつけられて冷遇されてしまうのだ、きっとそうだ。
そんなことにはさせない、と僕はムキになった。トウイさんは僕の大事な先輩である。守護人の罠に引っかかって、うかうかと余計なことを口走るもんか。
「トウイさんは、とても立派な人です。剣術は抜きんでた実力の持ち主で、仕事にも大変真面目で、誠実です。僕のような至らない後輩にも優しく丁寧に接してくれる、尊敬できる先輩です!」
きっぱり言ってから、どうだ、というように見返した僕に、守護人は無言だった。
しばらくの沈黙を置いてから、
「……それから?」
と言われ、僕は混乱した。
「あ、あの、それから、と言われますと……?」
「それっぽっち、ってことはないでしょう。他にも良いところはいろいろあるでしょう」
「い、いろいろ……?」
困惑顔でハリスさんを窺うと、下を向いてぶるぶる肩を震わせている。わけがわからない。
「……えー、と、ほ、他には、何に対しても熱心に取り組むし、先輩たちの受けもいいし、いつも明るい、です」
なんとか再びそれだけ絞り出して、守護人を見る。
彼女は僕を見返して、促した。
「構いません。続けてください」
えええええ~……?
続けろも何も、もう思いつかない。
とは言えず、それから僕はちょっと泣きそうになりながら、よく食べるしー、とか、寝覚めがいいしー、とか、四苦八苦してトウイさんの他の長所を見つけ出すべく努力した。こんなにも頭を働かせたことはかつてない。汗の量も尋常じゃなかった。
なのに、守護人は容赦なく、こう言うのだ。
「それから?」
どちらかというと無表情。声も口調も、はじめからさして変化せず、淡々としている。
だけど。
──もっと、もっと、もっと言え、と、その目とその態度が要求しているのである。ものすごい圧力で。
結局最終的に、「トウイさんは世界一強くてカッコ良くて性格人格ともに非の打ちどころのない超人的な素晴らしい存在」、というところに行き着いて、ようやく僕はその地獄から解放された。
守護人は、またぜひお話を聞かせてください、と言って主殿に戻った。ハリスさんは笑いすぎのあまり、それからしばらく腹痛に苦しめられたらしい。
僕はまた二日ほど寝込んだ。
(つづく)
語り手は、本編後に神ノ宮に入った新米護衛官です。なので、いろんなことを知りません。
リライトのオマケ話は全三話の予定。「トウイ編」、「椎名編」、「トウイと椎名編」 です。この話で出てこない人も、これから出てくると思います。
リライトのオマケ話は全三話の予定。「トウイ編」、「椎名編」、「トウイと椎名編」 です。この話で出てこない人も、これから出てくると思います。
***
〇月〇日
僕が神ノ宮の護衛官になってから、ようやく一カ月が過ぎた。
まだたったの一カ月、といえばそうだけど、僕にとってその時間は、かなりうんざりするほど長く感じられるものだった。やっと一カ月かあ、とグッタリしながら思ってしまう。
環境の激変、というのがなにしろ大きい。僕が生まれ育ったのはニーヴァのはずれの小さく静かな街だったので、まず、首都の街々の大きさや賑やかさにびっくりした。
おまけにその中でも、七国の中で唯一神を戴く我が国の象徴でもある神ノ宮ときたら、どこもかしこも豪華で荘厳で神聖だった。そういうものに慣れていない僕は、あまりの眩さと煌めきに、危うく眩暈を起こしそうになったほどだ。
隅々まで美しく整えられた建物と庭園。秩序と静謐に満たされたその場所を、白い衣服を身につけた神官や、恭しく頭を下げる侍女や、ピシッとした礼を取る護衛官と警護が堂々と歩いているのである。田舎育ちの僕なんて、その雰囲気だけで気圧されてしまう。
どういう奇跡なのか、神ノ宮の護衛官としての採用が決まったとはいえ、そもそも僕はあまり自分には自信がないほうだ。昔から身体能力は高かったけれど、どちらかといえば性格は温和。神ノ宮入りを大喜びで祝ってくれた故郷の両親も、その点だけは心配していた。
そしてこれは入ってから判ったことなのだが、神ノ宮の護衛官や警護というのは、表では規律と礼儀に則っていながらも、裏ではかなり雑駁で荒々しい気性の男が多かった。神官の前では畏まっていても、護衛官の詰所では、がははと大口開けながら笑って卑猥なことばかり言っていたりする。その落差たるや、おそらく神ノ宮の護衛官というだけで憧れていた女の子たちが、激しく落胆して幻滅するのは間違いない。
そんな彼らにとって、十七歳という年齢の田舎から来た新米護衛官なんてのは、絶好のからかいの的でしかなかったらしい。さんざん絡まれ、どつかれ、からかわれ、使いっ走りをさせられて、おまけに延々と下品な話に付き合わされる。そういうのを跳ね除けるくらいの気概があればまだしもよかったのだが、ついつい従ってしまうような性格の僕は、それだけでもかなり消耗した。
そしてもちろん神ノ宮の護衛官というのは、先輩の相手をするのが仕事ではない。特に新米にとっては、厳しい訓練のほうが主体だ。そちらはそちらで相当キツくて、最初の十日くらいは身体のあちこちが痛くて動けなかった。
そんなわけで、肉体と精神共にヘロヘロになりながら、ようやくなんとか一カ月。
正直言って、疲労困憊している。もっと正直に言うと、故郷が懐かしくなることもある。こんなことでちゃんとやっていけるのかと、不安も心配もあるけれど。
──でも、神ノ宮の護衛官になれたことを後悔するような気持ちは、一切起こらなかった。
僕はまだ新人だから実際に護衛任務はさせてもらえないけど、他の護衛官たちは、仕事となると人が変わったように表情を引き締め、颯爽と剣を帯びて、職務に当たる。その姿は本当に格好良いと思うし、憧れたりもするからだ。
僕もいつか、あんな風になれるように、頑張ろう。
〇月〇日
今日、トウイさんが、夜の自由時間に 「マオールの街へ行ってみないか」 と誘いをかけてくれた。
最近十九歳になったというトウイさんは、僕とは二歳しか違わないのに、あの神獣の守護人の護衛官を任されているという、すごい人だ。訓練での様子を見ても、他の護衛官とは段違いに実力がずば抜けているのが判る。
それなのに、性格は至って気さくで、他の人たちのように僕をからかったりすることもない。それどころか、僕が先輩護衛官たちに絡まれている時、ちょっと度が過ぎているなと思うと、さりげなく中に割って入って上手に場を収めてくれたりする、優しい先輩だった。
「年下の後輩が出来て、嬉しくてしょうがないんだろ、トウイ」
なんて笑われても、
「そりゃそうですよ。カイルは、俺にとっては貴重な 『存分に威張れる相手』 ですからね。これまでみんなに散々やられた分、俺がこいつにやり返すんだから、他の人たちは手を出さないでください」
と言い返し、それとなく牽制までしてくれる。それでも笑って許されるのは、トウイさんがそれだけみんなに可愛がられている、ということの証なのだろう。この齢で破格の出世を遂げたわけだから、普通はもっと恨まれたり妬まれたりするものだと思うけど、彼らの間にそういう空気はまったくなかった。
そしてトウイさんはそんな台詞とは裏腹に、僕に対して威張るようなことは全然なかった。お前もいろいろ大変だなと気遣ってくれて、なんでも慣れれば平気になるもんさ、と励ましてくれることのほうが多い。
僕が護衛官たちの中でも特にトウイさんを頼ってしまうのは、当然の成り行きというものだろう。
トウイさんはまだ十代で、年相応なところもたくさんあるけれど、時々ふいにやたらと大人っぽく見えることもあるという、不思議な人だった。
そして、非常にストイック。せっかくマオールに行っても、「そういう店」 には見向きもしない。酒は好きじゃないと言うし、女の子から声を掛けられるとそそくさ逃げる。
異性には興味がないのかな。今度、いっぺん訊いてみようかな。でも、同性が好きだと告白されても、それはそれで困るなあ。
強くて、仲間からの信頼も厚くて、神獣の守護人の護衛に就く時はものすごく張り切って時間よりも前にいそいそと詰所を出ていく仕事熱心なトウイさんは、僕の尊敬する先輩だ。
ただ、そんなトウイさんでも、弱点はあるらしい。
この間、僕に神ノ宮の内部のことや神官への接し方などを教えてくれていた時のことだ。
トウイさんは、ふと気がついたように、まじまじと僕を 「見上げた」。
「……お前、背が高いな」
「はい、そうなんです。十を過ぎた頃から、むくむく伸びちゃって。背の高さでは、街の中でも一、二を争うくらいだったんです」
「……あ、そう」
「のっぽなんて、ちっともいいことなんてないですけどね。どこに隠れてもすぐ見つかっちゃうし、女の子には怯えられるし。せいぜい、剣を扱う時に腕の長さを活かせる、ってことと、高いところにあるものがすぐに取れる、ってことくらいですよ」
「……へえ、そう」
「それで、さっきの話の続きですけど……」
「うん、まず座れ」
「は?」
「その椅子に座れ。俺は立って話す」
「え、先輩を立たせて、僕が座るわけには」
「いいから」
とにかく座れ、と強引に僕を椅子に座らせたトウイさんは、その後、横を向いて悲しげなため息を吐きだしていた。
僕はどうやら、トウイさんのとても繊細な部分を刺激してしまったようだ。
〇月〇日
僕の少し先輩に当たる護衛官で、メルさん、という人がいる。
神ノ宮に入ってからまだ一年も経っていないというのだから、僕とそんなに変わらない新人のはずなのだけど、メルさんの立場は僕とはまったく違う。
なにしろ、もとは王ノ宮に在籍していたのを特別に守護人のお声がかりで引き抜かれた、という輝かしい経歴の持ち主なのだ。そしてトウイさんと同じく、守護人の護衛官を務めている。よほど有能なのだろう。本人も、自分でよくそう言っているし。
僕よりも年上で (個人的なことは秘密にする主義、ということで、正確な年齢は教えてもらえなかった)、でも非常に小柄で細身だ。顔も、間近に迫って来られるとついドギマギしてしまうくらいに美形なので、きっと女性の恰好をしたら違和感ないほどよく似合うと思う。おっと、そんな失礼なことを思ったら、怒られるかな。
外見からはあまりそうは見えないけど、メルさんも相当に強い。訓練では、負けたところを見たことがない。対戦者の懐にスッと近づいたかと思うと、耳許に顔を寄せただけで、相手が勝手にへなへなと意気消沈して、自ら敗北宣言をしてしまうのである。なんだろう、特殊な能力でも持っているんだろうか。
僕も一度対戦をお願いしてみたけど、「あなたのことはまだ調べてませんので、次の機会に」 とやんわり断られてしまった。
「なるほど、戦う前に、相手のことをちゃんと調べるわけですね」
と僕が感心すると、メルさんはくすくす笑った。
「そうです、そうです。いろいろとね。……まあ、どんな人間でも、他人に知られたら困ることの一つや二つはありますからねえ」
なるほど。戦う時の動きや癖を知られたら、確かに困るもんなあ。
「この戦法が使えないのは、守護人の護衛官の三人くらいですよ」
ロウガさんとハリスさんとトウイさんか。そうか、頭の中の情報だけではどうにもならないほど、やっぱりあの三人の腕は抜きん出ているんだな。つまり、僕ではまだまだ力不足、ということを暗に指摘されたのかもしれない。恥ずかしい話だ。
メルさんは、神獣の守護人の護衛官とはいえ、他の三人と違って護衛任務に就くことは滅多にない。じゃあ何をしているのかと不思議だが、詰所の食堂でみんなが息を抜いている時でもあまり姿を見ることはなく、たまに 「本っ当にあの方は人遣いの荒い……」 とぶつぶつ文句を言いながら忙しそうにしていることもあるので、なんらかの仕事はしているのだろう。
──トウイさんやメルさんのような護衛官を従えている 「神獣の守護人」 とは、どういう存在なのかな。
神ノ宮に来て判ったことだけど、神官っていうのは、ものすごく横柄で、威張りくさった人間が多かった。ましてや守護人となったら、どれほど居丈高に振る舞うものなのか、僕なんかには想像も出来ない。
トウイさんもきっと苦労してるんだろうなあ、と僕はしみじみと同情した。
〇月〇日
先日、珍しくメルさんが食堂で寛いでいたので、少しお喋りをした。
「おや、もう入って一カ月も経つっていうのに、神獣の守護人とはまだ会っていないんですか」
メルさんがちょっと驚いたように言うので、僕は笑って手を振った。
「そりゃそうですよ。僕みたいな護衛官の下っ端が、そうそう守護さまのお姿を拝めるはずないじゃないですか」
入った時、同じ護衛官と警護には顔合わせや自己紹介の機会をもらえたけど、それ以上のことは何もなかった。そもそも護衛官の退任や就任なんて、神ノ宮全体から見れば取るに足らない瑣末事でしかない。わざわざそれらの顔を覚える気もないらしい神官たちにとってみれば、入ろうが出ていこうがまったく関係のない話なのだろう。
大神官も、遠目でちらっと拝見しただけ。ましてや神獣の守護人なんて、神獣に次いで遠いところにおられる方、僕なんかが簡単にお会いできるものじゃない。
「……あの方、けっこう神ノ宮内をウロウロしてますけどね。あ、そうか、詰所の近くでせっせと訓練にばかり精を出してりゃ、そりゃ会えないか」
ぶつぶつと呟くように言ってから、メルさんはふいに、にやりと唇の端を上げた。
「じゃあ、あなたの持つ、神獣の守護人についての情報ってのは、まだ街にいた時のままで止まってるわけですね」
「情報って……一般の民が、そもそも守護人について存じ上げてることなんて、そんなにあるわけないでしょう。今は神ノ宮にいるとはいえ、その点で僕が街の住人たちと何も変わらない、という意味ならそうです」
「いやいや。それはそれで聞くに値する、という話です。あなたの故郷は確か、首都から大分離れてましたよね?」
「はい。それはもう、田舎の小さい街なんです。イルマを育てて売ることで、住人の大部分は生計を立ててます。近くの山に、イルマが好む草地があるので」
「結構結構。それで、その街では、神獣の守護人について、どんな話が伝わってますか?」
「どんな、って……」
僕は少し困惑して、なんとなく周囲を見回した。
いつものように騒いでいる護衛官たちの中には、ハリスさんと同じ卓について座っているトウイさんの後ろ姿もある。
ハリスさんはこっちを向いて少し苦笑を浮かべているけど、トウイさんは振り向かないので、どんな顔をしているのか、僕からは見えなかった。
「はあ、えーとその、それはもちろん、清らかで、優しく、美しく、心根のすぐれた、立派な方だと……」
ぼそぼそ言うと、メルさんがぶっと噴き出した。ついでに、ハリスさんまでが下を向いて、肩を揺らした。トウイさんの後ろ姿は、なぜか微塵も動かない。
「清らかで優しく美しい、と。でもそれは、表向きの話ですよね? もうちょっと、ありのままの評判を教えていただけませんかね? 大丈夫、ここでは何を言っても、外に漏れる気遣いはありません」
「いや、でも……」
神獣の守護人について下手なことを言うと、不敬罪に問われる可能性がある。それをもごもご口にすると、メルさんは 「大丈夫、絶対に大丈夫」 と気軽に言って手をひらひらと振った。それだけ、護衛官仲間を信用してる、ってことなのかな。だったら僕ももっと打ち解けて話さないといけないだろうか。
「……実は」
と前置きして、僕は声を潜めながら、「神獣の守護人についてのありのままの評判」 を並べていった。
曰く、異世界よりこちらに来てからというもの、豪華な食事や衣服に囲まれ、贅沢三昧の毎日を送っている。
曰く、お堅い神ノ宮にいることに飽きて、無責任にも神獣を放り出し、王ノ宮へ遊びに行ってしまった。あまつさえ、そこの居心地が思いのほかよかったことに味をしめ、ずっと帰らなかった。
曰く、王ノ宮ではカイラス王太子を誘惑して誑し込み、妃の座を狙っていたが、カイラック王の急逝によって目の覚めた王太子に、神ノ宮へと追い返された。守護人はまだその件について腹を立てており、今も折に触れ王ノ宮に不満を言い立てに行っている。
曰く、妖獣を意のままに操る魔性の力の持ち主だ、という噂がある──
「まあ、どこまで本当なのか、定かじゃないんですけど」
特に、妖獣を操る、っていう話はさすがにないだろうと思う。ただ、神獣の守護人が一時期神ノ宮を不在にして王ノ宮に滞在していた、というのは事実であるらしいので、これらの話もまったく根も葉もないことではない。
そういうわけで、街の住人たちにとって、神獣の守護人の評判は、すこぶる悪い。神獣も王太子も振り回されてお気の毒に、という同情論もあったし、王ノ宮と神ノ宮は守護人に対して甘すぎる、と憤慨する向きも多かった。
「そっ……それで」
メルさんは、僕の話を聞いて、ぶるぶると肩を震わせていた。この人もいつも守護人のワガママに付き合わされているから、その憤懣が溜まっているのだろう。ぴくぴくと引き攣るように動く唇は笑いをこらえているようにも見えるが、たぶん僕の気のせいだ。
「それで、あなたもその意見に、おおむね賛同しているんですかね?」
「そりゃあ……」
僕は口を突きだした。神ノ宮の護衛官として、守護人を崇めなきゃいけないという建前はともかく、本当は僕だって内心、そんな守護人にはずっと前から不満でいっぱいだったのだ。
──だって、神獣の守護人となったからには、ちゃんと義務を果たすべきなんじゃないのか?
いついかなる時も神獣の傍に寄り添って、神獣の精神を安らがせるのが守護人の務めだろう。それを放り出して、さっさと王ノ宮に鞍替えし、おまけに王太子に色目を使うなんて。
国の端のほうでは貧困に喘ぐ人が多くいる。いくら異世界から来たといっても、それくらいは知っておいてもいいはずだ。なのに守護人がしているのは、それらの人々の気持ちを逆撫でするようなことばかり。
どうしたって、いい感情なんて抱けるはずがないじゃないか。
きっと、自分のことにしか興味のない、遊び好きで、派手好きで、高慢で、頭が空っぽの娘なのだろう。そんなのが神獣の守護人として上に立ち、僕の尊敬するトウイさんや、有能なメルさんを、顎でこき使っているなんて、面白くないに決まっている。
というようなことをぶちぶちと続けていたら、ふと、すぐ前の卓の上に、黒い影が落ちていることに気がついた。
目を上げると、そこに立っていたのはトウイさんだった。
いつも気さくで、快活で、優しいトウイさん──は、僕を見て、薄っすらと微笑んでいた。
「ト、トウイ、さん?」
僕はまごついた。
……その口許は、一応笑いの形をとっている。でも、目が笑ってない。ぜんぜん、笑ってない。笑ってないどころか、本気の殺気を放っている。トウイさんの背後に、黒くて物騒で禍々しいものがゆらりと立ち昇っているのを、僕は確かに見た。
そしてトウイさんは、この就寝前の休憩中、どう考えても必要ないのに、肩に担ぐようにして、自分の剣を握っていた。
え?
「──カイル」
「は、はい?」
「ちょっと、剣の稽古に付き合ってくれないか?」
「え? は? い、今から? でももう外は暗いし、それにあの、僕の腕じゃ、到底トウイさんの相手は務まら……」
「いいから」
トウイさんは僕の後ろ襟首をぐいっと掴み、有無を言わせず、ずるずると詰所の外へと引きずっていった。
なにがなんだか判らず、混乱しながら救いを求めるようにして目線を向けた先では、メルさんとハリスさんが卓に突っ伏して大笑いしていた。
僕はそれから二日ほど寝込んだ。
(つづく)
内容はありません(断言)。そして、直は名前しか出てきません。
来栖は大真面目である、ということを切々と訴えた話。たぶん。
お読みくださる方は広い心で、「つづきはこちら」 からどうぞ。
秋のオマケ祭り。次はリライト。
来栖は大真面目である、ということを切々と訴えた話。たぶん。
お読みくださる方は広い心で、「つづきはこちら」 からどうぞ。
秋のオマケ祭り。次はリライト。
***
──最初に彼女を見た時、大袈裟ではなく、盛大に鳴り響く運命の鐘の音が聞こえた。
彼女はその時、なんの変哲もないただの川べりの景色を、まるできらめく宝物に対するようなひたむきさで一心に見つめていた。
まっすぐで、揺らがない眼差し。使い込んだ筆を持つ、絵の具で少し汚れた細い指の、滑らかで迷いのない動き。
なによりも、その瞳の輝きに魅入られた。
そこにあるのは、圧倒的な 「強さ」。
頼りない顎の線も、繊細な眉も、今にも笑みを零しそうにわずかに緩められた唇も、なにもかもが他を圧していた。彼女がまとっているのはぴんと張りつめた空気だけ。その時、その場で、彼女はまるで土手に座る女王のように、凛として、生命力に溢れ、美しかった。
周囲にある草も、川の水も、建物群も、それどころか空も雲も太陽も、今だけは彼女のために従順な演出をしているかのように見えた。雑音が消え、時間さえも止まったように思えた。それほどまでの、存在感だった。
来栖はすんなりと、自分の負けを認めた。どう見ても自分より二歳も三歳も年下に見えるその少女に、全面的に白旗を上げた。彼の心に宿ったのは、間違いなく憧憬であり、尊敬だった。この女の子の、好きなものに対する、一途さ、懸命さ、気迫、集中力、そういう諸々を合わせた 「強さ」 に、どうやっても自分は勝てない、と思ったのだ。
だからその瞬間、彼は彼女に恋をした。
妹がたった十年と少しという年齢で強制的に人生を途中終了させられた時から──来栖の頭と全身にとんでもなく絶望的な何かが植え付けられた時から、神や天なんて存在は一切信じなくなったというのに、一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、そういうものに感謝してもいいかなと思ってしまうくらいに、劇的で熱烈な感情だった。
──というわけで、来栖司は現在、真剣に悩んでいる。
来栖はもともと、何事につけておおむね即断即決のタイプだ。わりと直感で思いついたことをそのまま実行してしまうところがあり、しかも今までそれで失敗らしい失敗をしたこともない。そのためずっと、「悩む」 という行為とはあまり縁のない人生を送ってきた。
友人の林田には時々、「お前ってホントにムカつくな!」 と怒られてしまったりするこの頭の回転の速さと要領の良さが、今にして溜め込んだツケを一気に払えと来栖に迫っている。
要するに、つらい。
もう本当に、苦しくて、つらいのだ。
***
「なあ林田、できちゃった婚、っていうのは有効だと思う?」
唐突な来栖のその言葉に、テーブルを挟んで向かいに座っていた林田が、ぶぶーっと口に入れていた飯粒を勢いよく噴き出した。
大学の学食内は、昼食時ということもあって、多くの学生たちで賑わっている。親子丼がまだ半分くらい残ったドンブリを手に、咽せて咳き込む人物に向かって彼らの視線が集中したが、天井に目を向けた来栖は、そんなものまったく気にも留めないで自分の思索に耽っていた。ついでに言うと、窒息で死にそうになっている友人のほうも気にしない。
「……来栖、お前は今、彼女についてのノロケ話をしてたんだよな?」
ゲホンゲホンと何度も苦しそうな咳をして、ようやくまともに呼吸が出来るようになった林田が、呻くように言う。
来栖はきょとんとして、ようやく目の前の相手に視線を戻した。
「そうだけど?」
「直ちゃんが可愛くて可愛くてもうどうしよう、みたいなアホな話をダラダラと垂れ流していたんだよな?」
「そうだけど? ていうか、馴れ馴れしく 『直ちゃん』 って呼ぶの、やめてくれる?」
「その話からどうしていきなり 『できちゃった婚は有効か』 なんて台詞がポロッと出てくるんだよ!」
「いやだから、世間における一般的なごく普通の疑問として」
「その流れでその単語が出てくるあたりがすでに一般的じゃない」
「うーん……」
来栖は迷うように口ごもって、頬杖をついた手で首筋をなぞるようにして動かし、再び目線を天井に向けた。来栖という男はかなり容姿が良いので、そういう仕草が色っぽく見えるらしく、トレイを持って席を探している女の子たちが、こっちにちらちらと視線を送ってはひそひそ話し、くすくす笑いながら通り過ぎていった。
たぶん、この男の頭の中が可視化されたら、彼女らの笑みが強張るのは間違いないのだが。来栖はその外見で、林田の数倍は人生において得をしている。
「──ナオさんがさ」
「うん」
「両親の説得に、手こずっているらしくて」
ぽつりと落とされた言葉に、林田も、ああ、と納得した。いや、さっきの発言とこの件に関する因果関係はまったく不明なままだし、どちらかというとあんまり知りたくもないくらいなのだが、来栖の彼女である直という高校生が、現在抱えている厄介な案件については耳にして知っているからだ。
どうやら彼女は、進路についての希望と見解が、まったく両親と噛み合わなくて、困っているらしいのである。頑張って説得を重ねているのだが、今のところかなりの難色を示されている、という話だ。
親としては、普通に大学に進学して普通に就職するものだと思い込んでいた自分の娘の口から、いきなり 「美大に行きたい」 という言葉が出てきたものだから、困惑のほうが大きいのかもしれない。
「美大進学は、無理ではないんだろ?」
「無理じゃないよ、もちろん。学校の先生にも話をして、美術教師にはじめて自分の絵を見せたりもしたんだけど、こんなに描けるのかって驚かれたらしいし。技術的には、何の問題もないはずなんだ。ワタシは素人だけど、ナオさんの絵は、もっと広く人に知られるべきだと思う」
そんなにも絵を描くのが好きで、才能もあるというのなら、すんなりそちら方面に進ませてあげればいいのになあ、と林田などは思うのだが、それはやっぱり無責任な立場からの物言いなのだろう。親としては、美大に行ったその先、を不安に思ってしまうのも当然だ。
「で、親と揉めてんの?」
「揉めてるっていうか、どうしても理解できないみたいだね。絵は絵で、趣味としてやっていけばいいだろう、大学にもそういうクラブやサークルがあるだろうし、なんなら絵画教室にでも通えばいい、って。そういう捉え方なんだ」
「あー……、そりゃ噛み合ってないね」
これからの人生を懸けて本格的に絵を学びたい、という人間と、絵なんてものは所詮趣味や遊びの範疇でしかない、と考える人間と。
両者の溝はおそろしく深い。他人なら、合わない、の一言で済まされるその溝が、なまじ血縁関係になるとこじれてしまう。難しい問題である。
それでも、直という子は最近まで、自分がそういう進路希望を持っているということすら親に話せなかったというのだから、その状況はある意味大きな前進でもあるはずだ。
まだ高校二年生だというし、これから少しずつ時間をかけて、自分の意志が固いことを示していくしかないだろう。
「この先も大変だろうから、お前がちゃんと励ましてやれよ」
「もちろん」
来栖の彼女になったその少女については、林田もまったく無関係というわけではなくて、ちょっとした責任も感じているので、完全に他人事と割り切って聞くことも出来ない。握った拳にぐっと力を込めて来栖に言うと、そちらからは、何を当たり前のことを、という調子で返された。
「そりゃワタシはナオさんの支えになるし、ワタシに出来ることならなんでもしてあげるつもりだし」
「うん」
「なんなら疲れたナオさんに朝から晩までぴったり寄り添って、力づけたりもしたいんだけど切実に」
「うん、気持ち悪い」
きっぱりと林田に断言され、来栖ははあーと深く長いため息をついて、テーブルに突っ伏した。
「線引きがよくわからない……」
「いや普通に常識的に考えようぜ」
林田は突っ込んだが、来栖は 「ワタシほど常識を弁えた大学生はいないのに……」 とぶつぶつ言った。
来栖は確かに普通の大学生で、それなりに真面目で常識的な男でもある。しかしどこか一部分突出して、彼の持つ常識は、世間の常識とは食い違っているようなのだ。
なんだかちょっと怖いので、林田はその点、あまり考えないようにしているのだが。
来栖はテーブルに顔をくっつけたまま、もう一度悩ましげにうーんと唸った。
「ナオさんは自分のことを 『あんまり普通じゃない』 って思ってて、少し萎縮したところがあるんだよね。美大に行けば、自分と同じようにひとつのものにのめり込む人も、考え方や価値観がよく似た人にも出会えるだろうし、それだけでも世界が広がって、自信もつくと思うんだよなあ」
「まあ、そうだよな。お前のことも高校の頃からちょっと変人タイプだと俺は思っていたが、大学内にはもっと極端な変人が大勢いるもんな。俺は大学生になって、世間て広いな、と思ったよ」
「絵を描いてるナオさんは、あんなに楽しそうで綺麗なのに。一日中心おきなく絵のことを考えてもいいって環境に置いたら、きっとものすごくイキイキして、今以上にキラキラした目をすると思う。どうしてナオさんの親はそれがわかんないのか……ワタシが出張っていけば口先三寸で丸め込むのは不可能じゃないだろうけど、それだと意味がないし……ナオさんがこの試練を乗り越えて思いきり笑うところも見たいし……絶対、可愛くて可愛くてたまんないだろうし……そうなったら写メ撮りまくって力いっぱい抱きしめて頬ずりしてベタベタに甘えて甘やかしてお祝いしてあげるって夢も捨てがたい……ううーん」
「おい、後半。お前の欲求がダダ漏れになってるぞ、後半」
林田は冷静に指摘したが、来栖の耳には届いていないようで、うーんうーんと頭を抱えている。
来栖とは高校の時からの付き合いの林田だが、この男がこんな風に悩むところを見たのははじめてだ。
それだけ、彼女のことを大事に思っている、ということか。大事だからこそ、自分の中のあれこれを抑えつけて見守るスタンスをとっているわけで、けれどやっぱり、湧いて出る心配やもどかしさはどうしようもないのだろう。
今まで何があっても、ほとんどのことは自分でさっさと動いて迅速に処理し、片付けてきた来栖のような人間には、それは確かにしんどく、大変なことであるのかもしれない。
やれやれと思いながら、林田はふと顔を巡らせて、食堂の入口に視線をやった。すると、今まさに入って来ようとしていた女子学生たちが、テーブルに突っ伏す来栖の茶色がかった頭を発見して、ぎょっとしているところが目に入った。
彼女たちは、そのままくるりと回れ右して、そそくさと食堂を後にした。正解である。意外としつこい性格の来栖の怒りはまだ完全には収まっていない。彼女らだって、あんな怖い思いをするのは一度で充分だろう。林田もあんな肝を冷やすようなことは二度とゴメンだ。
もう一度言う。
普通の大学生である来栖の常識は、ごく一部分、世間の常識から大幅にはみ出している。
「ナオさんの自立は邪魔したくない……かといって、しょんぼりしたところを見てると、可哀想で可哀想でしょうがない……」
女子学生たちや林田の心情も知らず、来栖はまだ苦悩していたらしい。
一瞬言葉を切ったかと思うと、ぱっと顔を上げた。
「だからさ、やっぱりここは、ワタシがナオさんを引き取るのがいちばんの解決法だと思わない?」
「思わない」
「だってどうせ数年後には一緒に住むようになるんだし、それがちょっと早まるってだけのことだと思わない?」
「思わない」
「普通の大学に行って、普通の会社に就職して、普通のお嫁さんになる、っていうのが両親の描いてた人生コースなら、途中を省いてワタシのお嫁さんになっても、なんの問題もないと思わない?」
「思わない」
「年齢がどうの法律がどうの世間体がどうのっていうのが気になるなら、そういうものを一気に押し流せそうだという点で、できちゃった婚っていうのも有効だと思」
「思わない! 人の話を聞け! そこか! そこで最初に戻るのか! お前の一部歪んだ常識で固められた理屈を、さも普通のことのように喋って、俺に同意を求めるんじゃねえ!」
林田がテーブルをバンバンと平手で叩いて説教すると、来栖は不満げに唇を突きだした。
「それで四方八方が丸く収まる名案だと思うのに……美大はワタシのお嫁さんになっても通えるし、ワタシはナオさんが絵を描いているところを見るのがなにより好きだから、そのために全力でサポートする用意もある。お父さんとお母さんだって、ワタシのようにしっかりした男が義理の息子になって娘のそばにいると思ったら、安心できるでしょうに」
来栖は外面だけは好青年と言えなくもないが、この会話をもしも直の両親が知ったら、なにがなんでもこの男から娘を引き剥がそうとするのではないか──と林田は思った。しかしもちろん、口にはしない。そんなことになったら、来栖がどんな行動に出るか、考えるだに恐ろしい。
そこで林田ははっとした。胡乱な目で、前に座る男をじろりと睨みつける。
「……お前、その考えを、よもや直ちゃんの前で口にしてやしないだろうな?」
「まさか。プロポーズはもっと時間と場所とを念入りに選んでからじゃないと」
「そういう問題では、断じてない。だがいいか、ただでさえ直ちゃんは進路問題でいろいろと大変なんだから、これ以上困らせるようなことを言ったりするなよ」
「困るかなあ」
「困るに決まってんだろボケ。ドン引きするわ普通。まだ高校二年生なんだし、結婚のけの字も考えてるわけがあるか」
「だっていずれはそうなるし」
「だからなんで決めつけてんだよ! 来栖、お前まさかその、実際にできちゃった婚がどうのという事態が心配されるようなことは」
「やってない。やりたいけど、我慢してる。けっこう必死。ほんのり頬を染めてはにかむように笑うナオさんなんて心臓が止まるくらいに可愛いのに、まだ手を握って軽くキスするくらいのところで踏みとどまってるワタシの精神力は素晴らしい」
「そ、そうか、よかった……そこだけはまだ常識と理性がお前に残っていて、ホントによかった」
「最近でこそ、可愛く笑ったり可愛く話してくれたりするようになったとはいえ、ナオさんはまだ、他人への恐怖心っていうのが完全には取り払えてないみたいだからね。一気に距離を詰めて逃げられでもしたら、ワタシ泣いちゃうし。これから一生みっちりとそばにいるつもりなのに」
「怖いことをさらっと言うな!」
「あーあ……世の中って、ままならない」
林田の苦情もどこ吹く風で、頬杖をついた来栖は、哀愁を帯びた表情で、しみじみと息を吐き出した。
「──犬になりたいなあー。絵を描くナオさんにくっついて寝そべって、一日中ひたすらその顔を見て尻尾を振っていたい。それで時々頭を撫でてもらったら、幸せだろうになあー。それくらい、せめてものささやかで控えめな望みだと思わない? なのにそう言ったら、ナオさん、二歩くらい後ろに退がって、ワタシから距離を取ろうとするんだよ……」
「当たり前だ、この変態が!」
来栖が直ただ一人に捧げる両手から溢れんばかりの純愛、およびそれに伴う忍耐は、今のところ、誰にも理解してもらえない。
直本人にもだ。
つらい、と本気で思っている。
(おわり)
ご注意ください、「3」 です。この下に、2があります。
あまりにも長くてすでにぜんぜん小話ではないのですが、私の中ではこれは続編でも番外編でもなく、あくまで 「オマケ小話」 なのです。
非常に読みにくい、と思われる方は、小説家になろうさんの 「オマケの詰め合わせ」 に、同じものを投稿しておきますので、お手数ですが、そちらに。
申し訳ない……!
あまりにも長くてすでにぜんぜん小話ではないのですが、私の中ではこれは続編でも番外編でもなく、あくまで 「オマケ小話」 なのです。
非常に読みにくい、と思われる方は、小説家になろうさんの 「オマケの詰め合わせ」 に、同じものを投稿しておきますので、お手数ですが、そちらに。
申し訳ない……!
***
──それで結局、どうなったかって?
退院し、医者から松葉杖がなくてもいいという許可をもらってから、加納は本当にその日のうちに、「ワコちゃん」 の許へと行ったのだという。
どうだった? と訊ねたら、痴漢扱いされた、だの、ファミレスで紙ナフキンを拾って廻った、だのという、要領を得ない答えばかりが返ってきて混乱したが、つまりは上手くいった、ということらしい。あいつにはコミュニケーションの勉強が必要なんじゃないか、と俺は今、心の底から心配している。
現在まだゆっくりと二人の仲を育んでいる途中だというから遠慮しているが、いずれちゃんと俺にも紹介してくれるそうだ。
どんな子なのかなあ。
自分も失恋したというのに、初対面のフラレ男を一生懸命慰めてやろうとする、お人好しな女の子。
加納の惚気話は、「妄想癖がある」 とか 「すぐ人に騙されそう」 とか 「ちょっと変わったところもある」 とか、そんなことばっかりで、まったく人となりが伝わってこない。
どうやって口説いたんだと訊いても、
「ワコが、『まっすぐ目を見て話せば彼女なんてすぐに出来る』 って言うから、実行した」
などという返事が来るだけで、やっぱりわからない。
まさかその顔にモノをいわせて色仕掛けで迫ったんじゃないだろうなと不安になったが、それに対するワコちゃんの返事は、「アホだし無神経だしデリカシーがないし時々理解不能」 というものだったそうである。ますます本気でわからない。おまえら一体、どういうカップルなの?
まあでも、それだけわかっていても加納がいい、と言ってくれる子なら、きっと大丈夫なんだろう。
会える日が、楽しみだ。
──と、その時の俺は思っていた。
まさか、紹介されるよりも前に、その相手にひょっこり遭遇してしまうなんて、考えてもいなかったんだ。
***
その日、俺は自分の彼女をデートに誘い、待ち合わせ場所に立っていた。
彼女との待ち合わせはいつも、行きつけのカフェの前、ということに設定してある。店に入ってしまうと何か注文しなきゃいけないし、それで時間を取られるのが俺も彼女も好きじゃない。落ち合って、まずはちょっとゆっくりしようかということになれば、改めて店に入ればいいことだ。二人とも、あまり時間にルーズなほうじゃないから、それで別に問題はなかった。
けれどその日は珍しく、十分くらい遅れそうだ、という連絡が彼女から入った。どうやら事故があって電車のダイヤが乱れているらしい。なんなら店に入っていて、と言われて、俺はちょっと迷った。
どうしようかなあ。これが三十分ということなら、迷うことなく店に入るところだが、十分なんて、注文した飲み物が運ばれたその時くらいに、彼女が現れそうだ。
すっかり春になった今、外はうらうらとした陽射しと、ぽかぽかとした暖かさに包まれている。どこかに桜の木があるらしく、歩道にはそろそろ散りはじめたその花びらが、点々と模様を作るようにして落ちていた。
風ひとつないから、その花びらは道行く人にただ踏まれ続けるばかりで、ちょっと寂しげだ。
昼寝をするのには最適だという気候は、歩道を行く通行人たちの顔までも、のんびりと弛緩したものにさせている。日向ぼっこのつもりで、ここでゆっくり待ち人をするのも悪くないかもしれないな、と俺は考えた。
というわけで、歩道に植えられた街路樹に寄りかかり、時間潰しにゲームでもするか、とスマホを取り出した時。
「あっ」
という、幼い声がすぐ近くで聞こえた。
顔を上げてみたら、小学校低学年くらいの女の子が泣きそうな表情で、上のほうに目をやっている。女の子の近くにいる、その母親らしき女性も、困ったような顔で同じ方向を見上げている。
なんだ? と俺もそちらに顔を向けて、すぐに理由が判った。
風船だ。
どこかで貰ったのか買ったのか、大きなハート形の赤い風船が、街路樹の上のほうで引っかかっている。
ついうっかり手を離してしまい、飛んでいった風船が幸い枝か葉によって止まったものの、それは女の子にもその母親にも手の届かない位置だったらしい。
そのことに気づいたのは俺だけではなく、通りすがりの若い女性も足を止め、あー、と口をまるく開けて風船を見上げていた。
風船の持ち主である女の子はもちろん、その母親が背伸びをして手を伸ばしても、風船のあるところには届かない。二十代くらいの通行人の女性までが、ううーんと唸って手を伸ばしたが、無理だった。ていうか、この人はまったく無関係なのだろうに、物好きな性格であるらしい。
ちょっと目尻が下がって、笑っていないのに笑っているような顔。やや細身で、全体的に温和で大人しそうな印象を受ける。ゆるくウェーブのかかった髪の毛が、肩の上でふわふわと揺れていた。
美人ってわけではないが、にこにこ微笑んでいるのが似合う、いかにも人の好さそうな容貌をした、可愛いらしい雰囲気の女性だ。
彼女は、伸ばしていた手を引っ込めると、何かを考えるような生真面目な顔つきになって、じっと風船を見つめた。「糸が……」 と小声で呟きながら、ちらりと親子のほうを見て、次いで近くに立っている俺を見る。
そして、うーむ、とでも言いたげな表情でわずかに眉を寄せた。
ん? と怪訝に思う。
ここは、「あなたも手伝ってくれない?」 という、期待と督促の目で見られる場面なんじゃないのかな。さっきから俺もそう思って、心の準備をしていたところだったんだけど。
なんだかその顔、俺がここにいたら困る、というものに見える。まさかとは思うが、スカート姿で木に登って風船を取るつもりだったんじゃあるまいな。
「俺がやってみましょうか」
しかしまあ、考えていても仕方ない。この状況で知らんぷりを貫くほど、俺も冷血漢じゃないので、声をかけて彼女らの許へ寄っていった。
すみません、と女の子のお母さんが恐縮している。女の子のほうからはキラキラとした期待に満ちた目を向けられた。なんか、プレッシャーがすごいな。
「よっ……と」
風船はなんとも微妙な位置に引っかかっていた。俺が背伸びをし、指先をぴんと伸ばして、ようやく風船本体に触れられるくらい。触れるだけでは取れないし、下手をすると今度こそ空に飛ばしてしまいそうだ。
いかん、指がぷるぷると震えてきた。せめて、風船の糸が下に垂れていたらよかったのだが。
──と、その時。
風船よりも上の枝にかかっていた糸の先が、いきなりはらりと落ちてきて、俺の手の中に納まった。
へ?
なんで? 今、風なんて吹いていないよな? 枝だって揺れていないよな? まるで糸が自発的にふわりと浮いて、俺の手の中に滑り込んできたように見えたんだけど、気のせいか?
よく判らないながら、とにかく糸を掴んで引っ張ると、風船は容易く外れた。後ろで女の子の歓声と、母親の安堵のため息があがる。
「ありがとうございました」
「どうもありがとう!」
親子から頭を下げて礼を言われたが、はあ、とちょっとぽかんとしたまま返事をするしかない。
今の、俺が取った、ということになるんだろうか。どちらかというと、風船が勝手に捕まりに来た、という感じだったんだけど。
二人の後方になにげなく視線を向けると、俺の手から風船を受け取った女の子がはしゃぐ様子を、温かい微笑と共に見守っていた女性の姿が目に入った。
彼女がふと顔を上げて、俺と目が合う。
そうしたら、困ったようにさっと逸らされた。ん? なんで?
「お兄さんお姉さん、ありがとー!」
と手を振って去っていく女の子とその母親に向かって、俺と女性も手を振り返す。それから改めて彼女のほうを向いた。
「あの……」
「よかったですよね! じゃあ、私はこれで!」
女性は俺の言葉を遮るようにして勢いよくそう返すと、逃げるようにそそくさと踵を返した。呆気にとられるような唐突さだ。
変わった人だな、と思いながらその後ろ姿を見ていたら、数歩進んだところで着信があったらしく、彼女がバッグからスマホを取り出した。
耳に当て、立ち止まる。
「あ、加納さん?」
俺はずるっとその場で滑りそうになった。
今、なんて?
「さっき用事が終わったところなんです。これからそっちに……え?」
俺にまじまじと見つめられていることなんてまったく気づいていない女性は、びっくりしたような声を上げて、スマホを耳に当て直した。
「病気?」
途端に、声が心配そうなものになる。後ろ姿なので顔は見えないが、きっとくっきりと心配そうな表情をしているんだろうなあ、というのが容易に推測できる声音だった。
「どうしたんですか。風邪? 熱はどれくらい?」
咳は? 喉は痛い? と一つずつこまごまと症状を聞く様子が、なんだかさっきの女の子の母親の姿と重なる。電話の向こうでは、相手もその問いにいちいち一つずつ返答しているようで、普段から彼女に甘えきっているんだろうなあ、ということも、これまた簡単に想像できた。面倒な男で申し訳ない、という気分になって、俺のほうが恥じ入ってしまう。
「病院には行ってないんですか。薬は? え、朝から何も食べてない? 冷蔵庫が空っぽ?」
独身男なんだから、自己管理くらいしっかりしろよ。
「じゃあ、買い物してからそっちに行きますから……は?」
慌ただしくスマホを切って足を動かそうとしていた彼女の動きが、ピタリと止まった。
「来なくていい? ヘロヘロでカッコ悪いところを見せたくないから?」
あいつ、ホントにアホだな!
「もー、なに言ってるんですか」
女性は──たぶん 「ワコちゃん」 は、呆れた声で、窘めるように言った。
「大丈夫ですよ。もともと、加納さんをカッコイイなんて思ったこと、ほとんどないし」
ぶっ、と噴き出してしまった。
スマホの向こうでは、どうやら相手が文句を言い立てているらしい。はいはいと返事をしつつ、ワコちゃんは注意をすることも怠らなかった。
「あんまり大きな声を出すと熱が上がりますよ。私が行くまで、おでこと脇の下を冷やして、水分を取って、大人しく寝ていてくださいね。いいですか、フラフラ起きてちゃダメですよ」
どっちが年上だかわかりゃしない。
「じゃあ」
スマホを切って、歩き出そうとしていたワコちゃんが、いきなりくるっとこっちを振り向いた。
笑いをこらえるために口を手で覆っていた俺は、おっと、と急いで表情を取り繕う。これじゃ、人の会話に聞き耳を立てている、ただの不審者だ。
しかしワコちゃんは、胡乱そうな目をするでもなく、咎めるような顔をするでもなく、ちょっとだけ照れくさそうに、えへへ、と目許を崩して笑った。
しょうがない人なんですよ──と、まるで自慢をするように。
そして、幸せそうに。
それからまたくるっと背中を向けて、小走りに去っていく。これからスーパーに行って買い物をし、手のかかる恋人の世話をするためアパートに向かうのだろう。急いでいるけど、どこか弾むような足取りだった。
俺は再び笑い出したいような気持ちになって、小さくなっていくその姿を見送った。
心がほっこりと温かい。
──よかったなあ、加納。
風も吹いていないのに、駆けていくワコちゃんの周りでは、歩道に散ったたくさんの桜の白い花びらが、まるで踊るように、ふわりふわりと空中を舞っていた。
(おわり)
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